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早川俊二 プロフィール

早川俊二プロフィール写真

早川俊二氏

早川俊二
1950 長野県生まれ
1973 創形美術学校卒業
1974 渡仏
1976 パリ国立美術学校入学(~81年まで在学)
     彫刻家Marcel Gili氏に師事する
1992 アスクエア神田ギャラリーにて個展
現在パリ在住

「早川絵画の世界紹介」(2009年「US新聞」記事抜粋)

早川絵画の特徴は、さほど多くの種類の色彩を使わず、早川氏が長い間練り上げ、創り出した独自の油絵の具で、幾重にも塗り込められた分厚いマチュエールによって、人物や静物の存在感を映し出す。コットンの生地を3枚貼って、地塗りを徹底的にほどこし、厚くなった独特のキャンバスの周りは、削られたように、わざとそのままの状態をむき出しにしている。早川氏によると、その部分も絵の一部だというから、その無骨さが、繊細な色彩や空間表現と対照的で面白い。そして、意外なのは、ほとんどの作品を筆でなく、ペインティングナイフで描いていることだ。「筆で塗っただけでは薄すぎてつまらない。絵の具の現実感が伝わってこないので、ナイフを使うようになった。レンブラントも(ペインティングナイフを)巧みに使っている。」と語る。卓越したデッサン力と色彩感覚、そして、巧みな空間表現。早川氏の稀にみる芸術に対する純粋で真摯な追求力がなせる技なのか。「内なる光」を持つ作品と美術史家、佐藤よりこ氏は批評した。評論家たちが絶賛する早川絵画の世界とは、いったいどのようにしてできたのであろうか。

 1950年長野生まれの早川氏は、今年59歳。渡仏したのは、1974年で24歳のときだ。以来35年間、あらゆる商業主義的なものから距離を置いて、西洋美術の巨匠に囲まれたパリで、黙々と自分自身の芸術に精進し続けている。若き早川氏は、1973年東京の創形美術学校を卒業して、結子氏と結婚して、すぐパリに渡り、パリ国立美術学校で、彫刻の教授であるマルセル・ジリ氏の下で、1976年から1981年の間、基本にもどり、デッサンの勉強をした。西欧美術の巨匠作品と対峙しながら、黙々とデッサンに励んだ早川氏。これが、早川絵画の核となる。早川氏にとって、「絵を描くというのは、技術が90%、表現力はほんのわずか。  しかし、20世紀絵画は、表現が拡大しすぎていて、なんとつまらない主張をしているか・・・とくにアメリカ美術は、虚構の世界だった。金額を上げて、華々しくやっているが、内容は貧弱。未来を見据えて、自分とは何かを問うというより、瞬間を楽しむっていう感じだっだ。」そんな20世紀絵画に疑問を持ったとき、ヨーロッパの古典絵画に触発されながら、白黒のデッサンの基本的な世界に色が見えてきたという。「白から黒へのグレーのニュアンスがすごく、やればやるほど、すごい宇宙がでてくる。それがデッサンの世界・・・それが、墨絵だし、ミケランジェロの晩年のデッサンだ。」と絵画にとってのデッサンの重要さを語る。

 1983年、パリにてデッサンと油絵の初個展を2回行う。大成功を収め、10以上の画廊から誘いがあったが、商業的なものを感じ、あえて断わる。「このとき有頂天になっていたら、現在の僕はなかった。商売の世界は創造の世界からどんどん遠ざかっていくという恐怖感があって、断った。」とそのときのことを振り返る。1984年、グループ展として、FIACに出展するが、絵の具の研究の必要性から出展活動を止める。その後、30代からは、20年以上もの長い月日を絵の具の製作研究に費やす。気の遠くなるような時間だ。

 1987年、37歳ごろ、当時松坂屋の画廊で働いていた、伊藤厚美氏にパリで出会う。早川氏のデッサンを見て、強い衝撃を受ける。1987年といえば、バブルの創成期。伊藤氏が見た当時の早川氏のパリのアトリエというのは、古い建物の中にある「ほったて小屋」のような感じだったという。「商業主義の真っ只中にいた世界から(私が)きて、見た彼の存在にものすごいギャップがあった・・・日々(デパートの画廊で)接している絵とは違う。芸術に対する思いが違う。これはデパートで扱うのはやめたほうがいい。」と直感し、早川氏が納得する作品ができ、日本での初個展を開くまで、5年間も辛抱強く待っていた。「早川俊二との出会いは、その後の私の人生を大きく変えた。」と伊藤氏は、ギャラリーのホームページに告白している。

 1992年、42歳のときに、「アスクエア人形町ギャラリー」(後にアスクエア神田ギャラリーとして移転)で初個展。このとき、私はジャパン・タイムズのアート・レビューの取材で、初めて早川氏に出会う。当時、まだ日本では無名で、純粋に自分の芸術を磨いている若き修行僧のような印象だった。その時のジャパン・タイムズの私の記事を振り返ると、「In search of the universality of beauty」(「美の普遍性を求めて」)という見出しで(1992年12月6日付)、「右向きのアトランティック」というテンペラとアクリル絵の具の混合技法を用いた、さほど大きくない一枚の少女の絵を紹介している。「私は、美の普遍性を求めたい。それは、我々が実在としてつかむことができない神のようなものだ。」と語る早川氏の言葉で記事は始まっている。早川氏の幾度も塗り込められたであろう分厚い絵肌の中で、「アトランティック」という少女の存在感は、白黒の新聞の紙面で、あたかも彫刻のように浮き出ていた。その吸引力はそれまで味わったことのないほど強いもので、だからこそ、どうしても記事にしたかったのだ。そのときの早川氏の黒目がちの大きな目が、彼の芸術に対する純粋さを映しだしていた。

 その後、1997年に「アスクエア神田ギャラリー」の個展で発表した「アフリカの壷」という作品が、読売新聞の日曜版の第一面の芥川喜好氏による「絵は風景」という人気コーナーで、1ページにわたってカラーで大きく取り上げられ、日経新聞や朝日新聞などでも個展がたびたび紹介されるようになり、一般のアート愛好家にも早川氏の存在が知られるようになる。芥川氏は、そのときの記事で、「自然で柔らか 空間の不思議」と題して、その絵をこう表現している。「さわさわと、空気の粒子が手に触れんばかりに粒立って視界を侵している。 そのなかに影のように壷はあらわれる。むしろ、空気の粒子がそこだけ壷のかたちに凝集して周囲と連続しているという感覚だ。つまり壷と空間はほとんど同質のものに見える。粒立つ空気の摩擦によるものか、画面は内側からほのかな熱と光を発して適度な温かみをたたえている。そのまま包みこまれてしまいそうな、快適な深みをもつ空間が生まれている。こんな絵に接するのは初めてという気がする。」(1997年12月7日付読売新聞日曜版より)「さほど広くはないが清潔な印象の画廊の壁面で、絵は周囲の空気とひそかに通じあいながら静かに燃焼していた。様式を主張するのでも、描かれるものを強調するのでもない、もっと自然で柔らかな吸引力にみちた画面だ。」と芥川氏は続く。

 2006年の最後の個展から今回の個展まで3年もの月日が必要だったのは、その絵の具の改良にまたしても時間がかかったからだという。早川氏は、大きな壁にぶつかりながら、この20年間の絵の具の技術研究を1年間かけて、もう1回やり直してみた。「そうしたら、20年間かかえていた問題が半分解決でき、今までで一番躍進した。(絵を)見た人は、より自由になって、(今までより)絵の中にすっと入れる感じ。エネルギーを発散してくるような感じに見えるのではないか。」と期待している。その結果、「今までより、透明感が増している。」と伊藤氏は強調する。

 早川氏の絵描きとしての原点は、中3のときに出会った、セザンヌの画集。以来、この道をめざしてまっしぐらだったという。「セザンヌは、絵の中に人を引き込んでくれる。あなたはこう見ろと人に押し付けない。森に行って草木に触れたり、それらが目にはいってくると、気持良くなる。あれと同じ感覚で絵を見れる。自分の絵のあるべき姿も同じだと思う。」と強調する。好きな作家や作品は、セザンヌ以外に、ジャコメッティ、レンブラントの晩年の作品、フェルメール、ミケランジェロの晩年のデッサンや彫刻、ピエロ・デラ・フランチェスカ、ファン・エイク、中国の南宋画、日本人では、長谷川等伯の「松林図屏風」、雪舟など。ポンペイの壁画やラスコーやアルタミラの洞窟壁画も好きで、見に行きたいという。普段は、いつもベートーベン、バッハ、ブラームスなどのクラシックの巨匠の音楽を聞きながら、絵を描く。

 独特の空間表現について、「物の存在を認知するのが光。光の粒子をとらえることによって、光の位置を絵の中に定着していくと空間ができてくる。(たとえば)、茶碗が占めている空間を自分の中でとらえられれば、自分の存在している宇宙がとらえられるのではないか。セザンヌに出会ったとき、そのことを感じたんだと思う。」と早川氏は語る。「今後、どんな絵画をめざしていくのか。」という質問に、早川氏は、「言葉で自分のめざす絵画を語るのはむずかしい。」と前置きしながら、「自己主張でない、自立した絵画を創っていきたい」と語る。早川氏の話の中で幾たびもでてくるセザンヌが残したような絵画のことだ。具体的に早川氏がめざす自立した絵画とは、何か。「植物の種をまいて、芽がでて、地上にでて、花がさき、しぼむ・・・そんな自然のいとなみの世界や私たち人間の一生のような絵画をめざしていきたい。」と語る。「神の創造を模倣するような、それに近い感じ」と語る。早川氏が描いた「人物や茶碗をかりて、一つの絵画でそういう世界ができればいい。」という。そして、冒頭で早川絵画に対して感じた私の印象の紹介と同じように、「(見る側が)絵に入ってくれて、自分の心と絵で対話してくれればいい。」早川氏のめざしている絵画とは、そういう意味で、すでに多くの私たちファンの心に届いている。だが、「その衝撃や感動ををもっともっと大きなものにしていきたい。」という。根底には、早川氏の絵を通して、「生きていることが貴重で素晴らしい。」というメッセージを伝えたいのだが、「それは見る側の感性でさまざまに感じてほしい。」という。

 そんな早川氏の普段の生活を聞くと、朝型人間で質素な生活を心がけている。毎日、明け方の3時から4時ごろから7時ぐらいまでが一番集中して作品にとりくむことができるという。ときには2時ぐらいから始めるという。絵描きとしての早川氏を生活面や精神面で長年ささえ続けてきた妻、結子氏と2人で菜食主義を貫き、無駄なものをすべてそぎ落として、芸術家としてまい進する日々。最初に早川俊二の才能を見出した結子氏という存在がなければ、この稀有な早川絵画の世界は開花されなかっただろう。  早川氏は、「今こそ基本にもどって、天然資源や自然を大事にする日本文化や日本人の感性をもっと自信を持って世界に訴えていくべきだ。」と言う。この100年に一度の経済危機と言われる現代の日本で、日本人が忘れてしまっていた大事なものがすべて見直されている中、早川氏の絵画、そして生き方は、私たちの心をとらえて離さないであろう。そして、いつの日にか、巨匠と呼ばれる日がくるのを予感させるような画家、それが早川俊二と強調して、この記事を締めくくりたい。

(文・写真撮影 馬場邦子2009年記

風景へ―2(Josette) 2007-08
油彩 195x130cm 個人蔵

女性の像(クレマンスの肖像・Ⅹ) 1999
油彩 130x97cm 個人蔵

女性とティーカップ 2003
油彩 116x89cm 個人蔵

女性の正面(ローズの服) 2004
油彩 65x54cm 個人蔵

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